フェイシャルハーモニー創始者
タンマヨ・ラナ・ローソン
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私はスコットランド北東部の小さな町で、冬の嵐の夜に生まれ、波の音を子守唄にして育ちました。
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祖父母は私に「昔ながらの方法」を教えてくれました。私は太陽と月と星の子で、地球は私の母でした。ケルトの古来の知恵は、祖父母の中に確かに息づいていたのです。祖母は私に 「See wi’ ma ither een(もう一つの目で見ること)」を教えてくれました。祖父は私に、星と同じ物質が私の体の細胞の中にあることを教えてくれました。この地球は生きているのだと。
祖父母の愛によって、私は自分の中の魔法を忘れることなく、導きに従いながら人生を歩んでいくことができたのです。
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目覚めへの旅の途中、気がつくと、私はインドで40日間ずっと瞑想をしていました。そのうち20日間は、ブッダガヤでのヴィパッサナー瞑想でした。
物心ついた時から、私には気づきがあり、目覚めと眠りを繰り返していました。タイの僧院で何日も瞑想していた時、私は形のない形を経験しました。全てが消え去るのを目にしながら、無心の境地の中で座っていました。当時の私は、無心と言う言葉を知りませんでした。自分の体験を伝えるのに必要な言葉を持ち合わせていなかったのです。私は完全なる平和の中、確固たる空間の体験の中でただ座っていました。小さな 「私」への同一化は、跡形もなく消えていきました。
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当時、私が知っていたいわゆる「アシュラム」は、クートフーミとジュワル・クールのいる内なる領域の中だけでした。私は東洋の伝統の数々を探究し始めました。ギータを読み、ラマクリシュナに恋をして、ビビカナンダやアラン・ワッツ、ラマナ・マハリシ、ビード・グリフィス神父の祝福を感じました。
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私のハートの唯一の願いは、聖なるものを知ること、人生の神秘を深く体験し、真実を知ることでした。それに人生をかける価値があったのです。私の中に実存的な問いが生まれました。「私は誰なのか?」
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幼少期からの好奇心を肥やしに、数々の偉大な叡智の教えの書によって生かされ、結婚生活を送りながら何年もこの世で生きているうちに、突然、私の関心は形のない世界だけに向けられるようになりました。それを期に、私はこの世に恋に落ちたのです。
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フィンドホーンで「ザ・パワー・イン・サービス(奉仕のパワー)」という集いに参加している時に、ある朝、瞑想中にインドに行くようにとの導きを受けました。インドに到着した私は、ただ足の向くままに旅をしました。
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幾つもの瞑想センターを訪れ、静寂の中に身を沈めました。来る日もくる日も「私は誰なのか」という問いの中に身を置き、ある恩寵の瞬間に、その問いも問う者も消えていったのです。
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多岐にわたる旅を経て、大いなる存在は私らしさとして表現されます。
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人生とその全てへの愛に突き動かされて、私という存在を通してもたらされる全てを人々と分かち合うこと、揺るぎない中心を確かに感じながらこの瞬間に身を置き、進化し続ける意識のフィールドに奉仕することが、私の大きな喜びです。
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「あなたは内側から成長しなければならない。誰もあなたを教えることはできないし、誰もあなたを霊的にすることはできない。あなた自身の魂以外に師はいないのだから。」ビベーカナンダ
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私は長年にわたり、ボディワーク、キネシオロジー、スタンリー・ローゼンバーグのソマティックリリース、ジョン・ブラッドショーのインナーチャイルドヒーリング、クラウディオ・ナランホのエニアグラム、ダイヤモンド・ロゴ・スクールのエッセンスとエニアグラムなど、さまざまな分野での学びを深めてきました。
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多くのスピリチュアルチャネリングの集まりに参加し、キティおばあちゃんの愛称で親しまれるグランドマザーダケシェワが、肉体を離れる前に叡智を授かりました。
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やがて私はプネーとOshoアシュラムに辿り着き、そこで禅スタイルの急進的な探究「サトリ」に参加し、故郷に帰ってきたように感じたのです。その後、この瞑想リトリートをリードするようになりました。
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この人生の旅の中で、ある時ひらめきが訪れ、インテグラルタッチのフェイシャルハーモニーが生まれました。このワークは、様々なものへの私の愛を満たしてくれるものです。探究の扉を開き、身体的なストレスパターンを解放し、もつれ絡まった心理を解きほどいてくれます。クライアントは、長い間瞑想をしてきた人たちが知る場所へと沈み込んでいくことができるのです。内なる安らぎの空間に繋がり、また人生を深く信頼することができるようになるのです。
プラクティショナーとしてフェイシャルハーモニーを提供することは、インテグラルタッチのただ在ることを通して、ハートの瞑想をすることなのです。
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タンマヨ
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♦︎タンマヨの動画